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赤間地区のあゆみ

赤間地区のあゆみ 赤馬から赤間へのあゆみ
  昭和の赤間町のすがた   
  戦後60年の変遷      

赤馬から赤間へのあゆみ
 赤間の地名は、古くは赤馬と書きました。地名の由来は、神武天皇東征の折、吉留の八所宮の神が赤馬に乗って現れ、里民に従軍を命じたことにちなんで赤馬と名付けたと言い伝えがあります。
赤間地区は釣川上流域に位置し、北部に城山、南麓の丘陵地、東部は釣川上流の吉武地区に接し、南部は赤木峠から鞍手郡宮田町に接し、西部は田園地帯の河東地区と自由ヶ丘、南郷地区に接します。
赤間には、平安期に芦屋から太宰府に通じる官道「芦屋往還」が通っていました。江戸時代に入り、参勤交代のための道「唐津街道」が整備され、当初豊前小倉から若松・芦屋から赤間を通り博多・福岡・前原など福岡藩十一宿を経て唐津城下に至っていましたが、明和年間には小倉から黒崎・木屋瀬と長崎街道を通って赤間に至るルートに変わりました、  
江戸時代の赤間は、唐津街道に沿う宿場町で、筑前二十一宿の一つとして商業・流通の中心として繁栄を見せ、明治期に入っても筑豊地方を後背地に持つ在郷町として繁栄が続きました。
   
赤間郵便局
赤間警察署
   
 明治の初期には、赤間に日新小学校が他に先駆けて開校、赤間郵便局、警察掛巡視所(後に赤間警察署)、宗像郡役所などが設置され、県立中学校宗像分校も開校しました。
しかし、明治14年(1881年)に宗像郡役所が東郷に移り県立中学も東郷に設置されました。赤間地区は、江戸時代、赤間・石丸・藤原(後に冨地原の表記を用いる)・名残・徳重・田久・土穴・三郎丸・陵厳寺の九村がありました。明治22年(1889年)町村制施行により、九村が合併し赤間村が誕生、明治三十一年には町制施行して赤間町となりました。
明治23年に九州鉄道の博多−赤間間が開通、続いて赤間−遠賀川間が開通しましたが、城山峠越えの難関のためその足場として当時は寒村だった土穴に赤間駅が開業しました。
明治42年には赤間−海老津間に城山トンネルが開通。以後、駅から離れているため赤間宿の商業は、しだいに衰退していきました。
   
城山トンネル


上の写真は城山トンネル掘削当時の貴重な写真です。
開通後の城山トンネル
工事中の写真をクリックすると大きく拡大できます。  
 
   
赤間駅
赤間小学校
   
 大正2年に東郷駅が開業、大正8年に県立宗像中学校が東郷村に開校、大正14年に町施行した東郷町に大正15年には県立宗像実業女学校も開校しました。一方、太政官通達による国道の開通(昭和7年 東郷−海老津間)は、従来の赤間宿経由の道を避けて福間−東郷−海老津の線を通るようになったため、赤間の衰退に拍車をかけ、東郷には法務局や裁判所、警察署が置かれ、郡の中心へと移っていきました。


昭和の赤間町のすがた
 赤間町では、陵厳寺に昭和10年2月舞鶴バス株式会社(後に西鉄と合併)が移転、この年、県立農士道場宗像塾が陵厳寺に設立されました。明治6年に赤間小学校も陵厳寺に移転しています。
   
舞鶴バス本社
農士道場作業風景
   
 このように赤間町の中心である赤間は面積が狭く、周囲を陵駕寺に取り囲まれており、広い敷地が必要な施設は赤間にはできず、したがって、当時赤間にあった公共的施設は、赤間町役場、赤間派出所、営林署、赤間農業会(農会・産業組合、後の農業協同組合)などでした。
戦後になって学制改革が実施され小中高六・三・三制となり、まず昭和22年に新制中学として東部中学校(後の城山中学)が赤間小学校の校舎を仮校舎として開校。
この年、赤間町役場が表通りの民家を買収して移転しました。翌23年には自治体警察として赤間町警察署が発足しました。この年老朽化した芝居小屋「勧善社」を改修して、司座が劇場としてオープンし当時の映画・演劇の殿堂として賑わいました。自治警赤間町警察署は、町財政の大きな負担となり、昭和27年に廃止され、国家地方警察宗像地区警察に編入されました。
   
農業会
赤間町役場閉庁記念写真
   
 昭和29年4月1日、吉武、赤間、河東、南郷、東郷の五ヶ町村が合併して宗像町が誕生、河東村旧役場を仮庁舎として発足しました。
しかし、役場庁舎の問題から分町問題が起こり、9月臨時議会(合併議員84人)で宗像町分割議案が39対38の一票差で可決しました。薄町長が早速分町申請書を県地方課に提出したが、杉本県知事が町代表30人を県に招いて分町を思い止どまるよう勧告しました。この年の12月議会で、宗像郡を一町とする大同合併案を可決して、町政をマヒ状態にしていた分町紛争は終結しました。
 
当時の城山中学正門
城山中学玄関
   
 昭和36年6月1日国鉄門司−久留米間が電化され、赤間駅は福岡市、北九州市への通勤時間が大幅に短縮され、宗像町特に赤間地区は両市へのベッドタウンとして大きくクローズアップされました。
昭和36年1月議会で誘致を決め、町を挙げて運動を展開していた福岡学芸大学の赤間への統合移転が昭和38年に決定。城山山麓の用地を買収し、昭和40年11月に開校、福岡教育大学と改称されました。
   
当時の城山中学校 校長室
移転前の赤間小学校生徒による人文字
森林都市開発時の写真
   
 また、田久を中心に6,500戸の大規模なニュータウン建設計画を発表していた森林都市開発株式会社が、昭和38年に宅地造成に着工、昭相40年9月に第一工区(一丁目〜六丁目)が完成、白由ヶ丘団地とし分譲が始まり、スーパーサニーも開店しました。
きらに、東海大学が田久に福岡校舎と付属高校の建設を昭和40年に着工し、翌41年4月東海大学福岡教養部として開校。続いて、昭和42年4月東海大学付属第五高校が開校しました。自由ヶ丘団地を校区に決めた赤間小学校を田久に移転建設、同年4月に完成し移転しました。
この年、赤間駅裏を開発するため区画整理組合が設立され、赤間駅南口としてロータリーを中心とした開発が昭和43年に完了して、栄町の地名で分譲開始。跨線橋建設で駅裏から赤間駅に渡れるようになりました。さらに、赤間大橋が完成、自由ヶ丘行き西鉄バスが運行を開始しました。

 


戦後60年の変遷  
 日本住宅公団が東郷団地(現日の里)と平行して開発していた赤間南団地(現葉山)が昭和45年3月に完成。分譲を開始しましたが応募が少なく、住宅建設期限を延ばすなど譲渡条件を緩和して募集を続けました。
昭和49年、町議会が役場庁舎を東郷に建設することを決定。また、町村合併20周年記念行事が中央公民館で行われました。
赤間小学校が田久に移転した跡地を、城山中学校の校舎用地として造成、昭和49年4月に第一期工事の普通教室など21教室が完成しました。(50年4月特別教室、51年3月体育館完成) 校舎等完成後の跡地を造成して広い運動場としました。
昭和52年に宗像町の住民登録人口が、5万人を突破、この年の11月に役場新庁舎が完成、落成式が行われ、総合窓口や電送ファックスなどで市民サービスが始められました。
昭和55年10月赤間駅に待望の快速電車が停車、国勢調査では町人口56,439人となりました。また、赤間駅の全面改築を国鉄本社で正式認可されました。
昭和56年4月宗像町が市に昇格、記念式典で天野市長が市制施行宣言。市の木に楠を、市の花に鹿の子百合が決まりました。
昭和57年10月赤間駅の橋上駅がオープンし、南口からも直接入られ便利になりました。徳重区内に開発中の団地が、この年「緑町ネオポリス」の名称で販売開始しました。
この年、自由ヶ丘中学校が開校、城山中学から生徒が別れて入学しました。
昭和58年4月赤間に市立働く婦人(女性)の家が完成し、市役所出張所の窓口が開設されました
 

 昭和60年4月、土穴、三郎丸と周辺団地を校区として、大谷団地の中に赤間西小学校が完成。行政地区も赤間地区から赤間西地区が分離、それぞれ独立したコミュニティ地域として活動。
昭和62年国鉄が民営化されJR九州となり、九州運輸局に教育大前駅の開業を申請して認可され、翌63年3月JR教育大前駅が舞鶴橋横に開業しました。
この年、久原の総合公園に総合市民センター「宗像ユリックス」が開館し、記念事業で賑わいました。
昭和64年1月7日昭和天皇がご崩御され、翌8日に、元号が「平成」と改元されました。冨地原に大規模住宅地造成を進めていた福岡県住宅供給公社が、平成元年からその一部を広陵台一・二・三丁目として販売を開始しました。
全面改築中であった赤間小学校の第一期工事がこの年完成、平成2年3月に校舎全面改築工事が完成しました。東海大学が工学部福岡教養部を閉校して、平成2年4月から東海大学福岡短期大学を開校し、国際文化・情報処理の両科に318人が入学しました。
平成5年、冨地原に研究学園都市と同公園整備工事が着工し、翌平成6年造成完了。愛称も「むなかたリサーチパークアスティ21」と決まり、9月に進出企業五社と土地売買契約。平成8年10月に研究施設が完成しました。
平成7年釣川左岸桜つつみ公園建設を決め、下流から工事に着工。
平成九年日本赤十字九州国際看護大学を冨地原に開設する立地協定が調印され、平成13年3月完成し開校しました。


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